CHAPTER 1
1

【1901 - 1924】
明治34 - 大正13

悲願達成と発展への基礎づくり

第1節 : 34歳の決意

岩田民次郎が養老院を開設

春と呼ぶにはまだ肌寒さを感じるある日、大阪の街に独りの老人が重い荷を担いで、よろよろと貸座敷業を営む店に、磨き砂を売りにやってきた。店主は、身寄りがなく細々と生活している、という老人の身の上話に耳を傾け、同情の念を抱きつつ、それでも生きようとする姿に感動を覚えていた。
時は、20世紀が幕を開けたばかりの1901(明治34)年。店主の名は、岩田民次郎。高齢者福祉事業の先駆者として、後に業界の祖と呼ばれることになる、その人であった。それは、大阪養老院から聖徳会へと、世紀を越えて受け継がれる養老事業の胎動が始まった瞬間でもあった。
小さいながらも脈を打ち始めた鼓動は1年後の1902年の春、大阪商業会議所で行われた内務省・留岡幸助の社会事業の講演会を聞く機会へとつながっていく。

民次郎の父・甚兵衛(上段左)、母・シャウ(下段左)、
20歳頃の民次郎(上段右)

外国における各種社会事業の実情や養老事業の現状、かねてから民次郎が考えていた事業がすでに立派な成果を上げていることを知り、大きな感銘を受けた。講演の最後に留岡が発した言葉によって、民次郎が抱いた決意はさらに揺るぎないものへと変わった。
「大阪に第二の大塩平八郎、出でよ」
33歳を迎えた民次郎はこれ以後、確固たる信念を持って、大阪養老院の設立を目指すことになる。

世の中の養老事業に対する視線は非常に冷たく、老人になっても働かないと生きていけないのは、若い頃からまじめに働かなかったからだ、本人の身から出たさびで自業自得だ、というのが当時の一般的な見方であり、全国的な風潮となっていた。また大阪では、1903年に第5回内国勧業博覧会の開催を控えており、大阪港の築港計画も進んでいた。さらに、日露戦争開戦への機運が日増しに高まっていた頃で、社会事業は後回し、養老事業どころではないという雰囲気が、福祉行政を担う大阪府や大阪市の為らざる本音であった。
だが、そんな情勢下だからこそ、なおのこと自らの決意を全うすることに、民次郎は、全力を尽くそうとしていた。

大阪府との交渉に奔走

決意と信念を実行へと移す民次郎は、養老院設立の認可を得るために、1902(明治35)年春から大阪府庁を何度も訪ねるようになっていた。担当する地方課救済係と話し合いを重ねたが、その反応は冷淡そのもので、申請書の受付だけでもひと悶着が起きるほどであった。

その背景には、当時の社会情勢のもとで新たな貧困層が全国の大都市に生まれつつあり、各種社会事業が各地で萌芽し始めていたことがあった。
「大阪に養老院などをつくると、よその県から老人がたくさん集まってくる。大阪のためによくない」そう言われて、玄関払いされることもあった。つまり、「老人は不要な存在、健全な社会の邪魔者」という考え方である。だが、それでもひるまない民次郎に、今度は「養老院をつくっても、政府には金がないぞ」とけん制を重ねた。
それなら、と民次郎が「大阪府の世話にはならない。自分の費用でなんとかするから」と説明すると、大阪府はどれだけの財産があるのかと民次郎の資産調査に取り掛かろうとする始末であった。挙句の果てには、根負けしたように「有力な賛同者がなければ認可はできない。もしそういう人がいるなら、願書を出してみるがよい」となった。

その後、民次郎は葬走し、有力者の賛同を取り付ける。そして、1902年11月9日、大阪市南区天王寺勝山通り(現・天王寺区勝山)にある東立寺の一部、建球29坪で34畳の建物を借りて、申請書と設立趣意書を作成するまでにこぎつけた。

明治30年代のお年寄り

岩田民次郎が書き記した大阪養老院設立趣意書

趣意書に込められた志

認可条件を満たすために、規定の作成には細心の注意を払う運営を心がけた。その一方で、民次郎が設立趣意書に盛り込んだ意気と志は、大阪府の役人根性とは対照的に高邁なものであり、堂々たる基本方針を謳い上げていた。
「老いて食なく、子や孫、身よりもない不幸な老人たち。われわれはこの人たちの子や孫に成り代り、親戚となって救済扶養し、悠自適、天命を全うさせたい」(大阪養老院設立趣意)
また、大阪養老院概則では「仏教主義をもって扶養義務者のない不幸な貧困独身の老人を扶養する」という目的を打ち出し、国や大阪府から見捨てられた人たちを対象にして、「本院は公費などの援助のない者を救う」と宣言していた。
さらに、その活動の進捗は「機関誌を毎月一回発行し、(老人の)諸般の情況を報告する」とし、公明正大で、透明性もあるものとなっていた。

第2節 : 「大阪養老院」開設

大阪では最初、全国でも4番目の養老院

1902(明治35)年12月1日、大阪養老院はついに開設の日を迎える。大阪では初めて、全国でも4番目となる養老院の誕生であった。
大阪府の認可を得るのを待ちきれずに、先行しての設立であったが、120周年を迎えるまでに成長を遂げた聖徳会にとって、この日が事実上の創設記念日であり、世の中に踏み出した第一歩となった。12月6日には、最初の収容者として3名の孤老を迎え入れた。

創立当時の大阪養老院(後列左から3人目が民次郎院長)

大阪養老院創設4ヶ月の収容老人たち
(上段右:民次郎院長、右端:院母のきぬ)

「養老新報」を発行

念願の開設にこぎつけた大阪養老院で、初代院長に就任した民次郎はいきなり難題に直面する。予想されていたことではあったが、それは官民そろっての無理解と、資金難であった。世の中に、養老事業の大切さと意義を知ってもらうこと。そして、資財、借財を合わせても不足する資金を補うために、広く浄財を募ること。養老活動の啓蒙事業と資金集めは、いずれも民次郎が生涯をかけて闘い続けていく難題になった。

民次郎は、啓蒙活動で数々の新機軸を打ち出していく。なかでも特筆すべきなのが『養老新報』の発行であった。大阪養老院の開設から1ヶ月後の1903(明治36)年1月にいち早く創刊し、1908年2月の第59号まで、ほぼ月1回のペースで発行し続けた。
発送先は多岐にわたった。内務省や検事局、裁判所、大阪の各区役所、近畿内の知事夫人をはじめ、北は北海道や岩手、南は長崎の社会事業団体や沖縄県知事にも送られ、総発行部数は1,000部程度あったと推察される。
民次郎が創刊号で綴った内容は、社会正義感の強さと志の高さがにじみ出るものであった。

「育てる親のない孤児、養う子のない老人を社会が育て、養うのは当然である。しかし、社会組織がまだそのように発達していないので傍観できず、自分の非力なこと、資金の乏しいことを省みる暇もなく養老院を設立した。さっそく多数の人の賛助を得ているが、さらに多くの老人を収容するべくみなさんのご協力を得たい。そのために収容した老人の実情と本院の目的を知ってもらうようにこの新聞を発行する」

第3節 : 経営苦しくとも「幼老」ともに救う

1906年、東北地方大飢饉のため117名を收容

一歩ずつ着実な歩みを進める民次郎は1906(明治39)年の春、一つの新聞記事に目を奪われた。東北地方に大飢饉が発生し、毎日のように数十名も餓死している、という内容だった。
しかも飢饉はすでに3年も続いているにもかかわらず、日露戦争で国力を疲弊した日本政府は、それを明らかにしようとしていなかった、というのである。
急いで現地へ、慰問品を持ち駆け付けた民次郎は、目にする光景の悲惨さに驚いた。そして、自らが為すべきことを知った。
「慰問だけでは、あかん」
一旦は大阪へ戻り、600円の資金を手に再び東北の地へ向かい、岩手、宮城や福島の3県から20名の老人と97名の子どもたちを引き取った。何とか無事に大阪へ辿り着いた117名は、新たに大阪養老院に収容された。それまで30名だったのが一挙に150名近い人数に膨れ上がったが、国や自治体からの援助は何もない。苦しい経営がより一層、圧迫を受けることになった。

民次郎が飢餓から救った97名の子どもたち

「大阪養老院付属少年部」の設置

97名の子どもたちの面倒を見ることとなり「老いと幼き」が共存する新しい収容者たちに対して、大阪養老院は特に子どもたちへの対応に細心の注意を払った。老人と違い、子どもには教育を施さねばならない、という義務感を民次郎は強く抱いていた。
1906(明治39)年6月1日、「大阪養老院付属少年部」を設置する。ただ、その呼び名は内々のものであり、役所向けには辻褄を合わせるために、大阪養老院全体を「大阪幼老院」と総称していた。言わば、「少年部」と「老年部」を合わせて「幼老院」としたのである。

「少年部」では、先生に依頼して小学校教育を実施した。当時、民次郎は「教室日誌・大阪養老院少年部」を書き残している。そこには、日曜日は授業が休みであることや、学力試験の成績に応じて各学年を編成したこと、胃弱や脚気、頭痛のために欠席した子どもがいたことなどが綴られている。

大阪養老院少年部の教育日誌

児童の様子を丁寧に綴った日誌

第4節 : 後援組織が相次いて誕生

1904年に「大阪慈善婦人養老会」が誕生

元々、民次郎の私財を投じて始められた事業であるため当初から資金的な余裕はなかったが、頼みの綱の私財も底をつき始めていた。創立当時に民次郎を応援してくれた大阪養老院の幹事や評議員たちの情熱も冷め始め、疎遠になりつつあった。
「種々ナル事情ノ基二少数トナレリ」
そう記した民次郎は私財を投げ出して孤軍奮闘していたが、一方で新たに支えようとしてくれたのが、名もない市井の庶民の人々であった。

東北地方から117名もの人を救出して連れ帰ったことが、大阪養老院の評価を一段と高め、ソロバンや教科書、子どもたち100名分の入浴無料、60名の散髪無料、ふとん、子ども用のメリヤス件などの寄贈品が相次いで寄せられた。民次郎の心意気に打たれての支援であった。
それまでにも、1903(明治36)年9月に大阪養老院を支援する人々が「大阪慈善有志会」を組織し、金品を寄付された。翌1904年に誕生した「大阪慈善婦人養老会」は、大阪養老院のために「白米五号運動」を大阪市内で展開し、各区から白米が寄贈された。味方となってくれた庶民の気持ちは、民次郎にとって何よりも心の糧となった。

寝室。寄贈品などを活用し生活をしている様子

第5節 : 「大阪聖徳会」設立

1911年秋、聖徳太子像を迎える

1911(明治44)年の秋、大阪養老院はそのシンボルとなる貴重な像を迎え入れる。日本の社会事業の祖となる存在であり、数々の救済施設をつくった聖徳太子の遺徳を慕っていた民次郎はある日、知人の紹介で古道具屋に置かれていた、太子の座像を見つけ出した。民次郎は、すぐにこの聖徳太子座像を購入して、大阪養老院に迎えるとともに、翌1913年には「聖徳殿」と名付け、老人たちの精神修養の場とした。

今でも大切に保存されている聖徳太子像

聖徳礼拝堂

1913年4月、「大阪聖徳会」設立

聖徳太子像を迎えてから、太子への信仰は、さらに深まりを見せ、1913(大正2)年4月8日、「大阪聖徳会」という修養団体を設立する。言者となる聖徳会員は数多く集まり、6月には南河内郡太子町にある聖徳太子を参拝する。
また、聖徳会員の寄付金を中心に1917年3月には「聖徳礼拝堂」(聖徳会堂)が完成する。

1
【1901 - 1924】明治34 - 大正13 悲願達成と発展への
基礎づくり
2
【1925 - 1944】大正14 - 昭和19 苦節の動乱期
3
【1945 - 1978】昭和20 - 昭和53 飛躍への土台づくり
4
【1979 - 2001】昭和54 - 平成13 高齢者福祉の
新時代到来
5
【2002 - 2006】平成14 - 平成18 100周年からさらなる
一歩を
6
【2007 - 2011】平成19 - 平成23 新たな伝統を創り出す
挑戦
7
【2012 - 2016】平成24 - 平成28 「21世紀型の社会福祉法人」として
8
【2017 - 2021】平成29 - 令和3 多様化・複雑化する福祉サービスにシナジーを発揮
未来
【2022 - ∞】令和4 - ∞ 120周年を節目に、
次なるステージへ
1

【1901 - 1924】
明治34 - 大正13

悲願達成と発展への基礎づくり

2

【1925 - 1944】
大正14 - 昭和19

苦節の動乱期

3

【1945 - 1978】
昭和20 - 昭和53

飛躍への土台づくり

4

【1979 - 2001】
昭和54 - 平成13

高齢者福祉の新時代到来

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【2002 - 2006】
平成14 - 平成18

100周年からさらなる一歩を

6

【2007 - 2011】
平成19 - 平成23

新たな伝統を創り出す挑戦

7

【2012 - 2016】
平成24 - 平成28

「21世紀型の社会福祉法人」として

8

【2017 - 2021】
平成29 - 令和3

多様化・複雑化する福祉サービスに
シナジーを発揮

未来

【2022 - ∞】
令和4 - ∞

120周年を節目に、次なるステージへ

LEARNING FROM HISTORY, PONDERING TODAY, ENVISIONING TOMORROW.