第1節 : 岩田克夫が二代目院長へ
進駐軍による立ち入り調査
戦争が終わり、焦土からの復興が始まるー。
1945(昭和20)年8月15日、日本が敗戦を迎えた時、大阪養老院が収容する老人は阿倍野の本院と松原の分院を合わせて、43名であった。激しい空襲に遭った大阪の地は焦土と化していたが、日本の非軍事化、民主化を進める進駐軍の戦後の占領政策が次々と打ち出された。
大阪養老院にも進駐軍の関係者が立ち入り調査を実施し、「早急に施設を改修せよ」との指令が下された。
すでに76歳となっていた民次郎夫妻は、高齢に加えて心身ともに疲労の極みにあった。院舎の改修と言われても、資材も資金もなく、困り果てた民次郎は、大阪府庁の担当者に相談し、自らの身の第一線からの引退と、松原分院を改修して再出発を期すことを決意する。
翌1946年12月、民次郎は孫・徳子の婿である岩田克夫に、二代目院長を引き継ぐことを決断する。当時、26歳の若さだった克夫は、出征から復員してまだ間もなく、しかも養老院の経営は初めての、全くの素人であった。さらに、引き継いだばかりの大阪養老院の台所事情は、深刻を極めていた。
民次郎の勇退と克夫の院長就任
自ら決意し勇退した民次郎に代わり、克夫の二代目院長としての日々が始まる。戦後まもなく収容する一部の老人が弘済院に移され、23名に減った老人とともに切るスタートであった。だが、終戦時から人数が半減してもなお、1日の食べ物を確保するのが困難な、大変な食糧難時代となっていた。院長である克夫も、実態は雑用係や事務員を兼務し、妻・徳子と文字通り二人三脚での苦難の第一歩となっていた。
ガチョウやアヒルを飼って栄養を補う
当時、コメの収穫減と極度のインフレにより日本全国が暮らしに窮し、「米よこせ」の食糧メーデーもあった。
院舎の空き地はすべて畑に姿を変え、いもや野菜を栽培した。アヒルを飼って卵を取り、ヤギから得た乳は水で薄めて煮沸し、隔日でどんぶり茶碗1杯ずつを老人たちにふるまい栄養不足を補った。
生活保護法制定
食糧不足の苦しい生活を余儀なくされるなか、1946(昭和21)年11月1日、生活保護法が施行される。新しい法律が誕生した背景には、進駐軍が出した「公的扶助の覚書」の存在があった。
この覚書には、「困窮者を平等に扶助すべきこと」「政府は生活保護のために財政的援助と実施の責任態勢を確立すべきこと」などが盛り込まれていた。それは、日本の公的扶助の概念や体系が、従来の「慈恵的、救貧的」なものから国家の責任によって「近代的、システム的」な施策に変わる、まさにターニングポイントと呼べるものであった。

内職をして小遣いを稼ぐ老人
第2節 : 構想の実現が次々と
大阪養老院診療所を新設
それまでの社会事業が、社会福祉事業と呼ばれるようになり、生活保護費を受けるようになっても、苦しい経営が続く日々に変わりはなかった。
インフレの荒波が続く社会情勢を反映して、生活に困窮する老人の入居は増え続け、翌1949年には入居者51名のところへ、一挙に53名もの新たな入居者が生まれた。大阪養老院は西宮市にできた大阪府委託の松風荘に一部転院を実施したが、焼け石に水の状況であった。苦しい資金繰りのなかで1949年8月、共同募金の補助により30坪の北館を新築する。3年後の1952年にも28坪の南館を新築した。
克夫は、新たに完成した北館に、9床の病床を持つ診療室を設けていた。さらに1951年には診療所にして規模を拡大し、翌1952年6月、大阪養老院の創立50周年を記念して、改めて大阪養老院診療所を新設した。

共同募金の配分で建てられた北舘

創立50周年を記念して開かれた大阪養老院診療所
「養老院はただ、よわよわしく病気にさいなまれながら死ぬまでの時間を過ごす場所ではない、明るく健康で生き生きとー。そのためには医療施設が欠かせない」
それは初代・民次郎と二代目・克夫、院長二代にわたって共通する考え方であった。民次郎は経営が順調だった1925(大正14) 年頃に、養老病院の構想を練っていたが、克夫はそれを27年後に実現した。しかも、大阪養老院の老人だけでなく、外来患者も受け付けるようにした。
社会福祉法人に改組
北館に加えて新たに南館も完成間近となっていた1952(昭和27)年4月、大阪養老院は社会福祉法人に改組し、組織を変更する。
長きにわたり財団法人として運営を続けてきたが、前年の1951年に施行された社会福祉事業法により、社会福祉法人としての第一歩を踏み出すことになった。
有料老人ホーム「松之荘」開設

有料老人ホーム第一号「松之荘」
社会福祉法人となって新たな一歩を刻んだのが、1952(昭和27)年12月に建設した大阪府下初の有料老人ホーム「松之荘」の誕生である。東京にもまだ数ヶ所しかなく、後に全国各地に次々と誕生していく有料老人ホームの先がけであり、画期的な試みであった。
背景には、核家族化への胎動があった。お金を持ち、子どももいて生活には困らないが、一緒に暮らすとトラブルが起き、一つ屋根の下に同居できない老人たちが、養老院入りを希望するようになっていた。だが、大阪養老院には生活保護法の適用を受ける、生活に困った老人しか入居することはできない。そこで生み出されたのが、有料老人ホームの発想であり、誰よりも早く着目したのが院長の克夫だった。
初代院長・民次郎死去
「老院長」と呼ばれて大阪養老院に入居する老人たちに親しまれながら交流を重ねていた初代院長・民次郎は、1954(昭和29)年の春先から、床につくことが多くなっていた。松原を訪れる足も次第に遠のき、体力と気力ともに衰弱が目立つようになっていく。そして5月12日、ついにその生涯を終える。85歳での大往生であった。
日本の養老事業を切り開いた先駆者は、その不屈で激しい闘魂を、情と機知で包み込んだ、柔和でやさしい人であった。養老事業家としての民次郎の優れた点を、孫の徳子は後に、次のように回想している。
大阪養老院創立50周年記念祝賀会に出席した民次郎(左)と握手する博愛社社長・小橋カツヱ氏。これが老友最後の握手となった。
「なにより多くの人に愛されたこと。民衆の理解と協力を得ることができたこと。聖徳婦人会などの後援団体を通じて無名の人たちからたくさんの金品が寄せられた。お金がありあまって養老院を経営していたのではないし、しかも、お金がなくては老人に満足なことをしてあげられない。国や自治体の援助も期待できない。そういうとき、民衆の善意に頼るほかはなかった。
小額でもその募金によって大阪養老院は運営されてきた。現在ではごく普通のことだが、当時それに気づき、積極的に組織化をはかったのは、先見の明というべきでしょう。
人心を集める一種の政治力、知恵もあったと思います。むろん、それだけでなく、例えば毎日新聞の本山彦一社長のように、民次郎の人柄を信頼して個人的に物心両面の尽力を惜しまなかった多くの有力な友人にも恵まれた。天性の人柄のよさと、創意に満ちた政治性。このふたつがあいまって、民次郎の事業を成功に導いたのではないでしょうか」
第3節 : 老人福祉への追い風
老人福祉法制定、法人名を「聖徳会」に
1963(昭和38)年7月、老人福祉法が公布される。養老事業に福祉の概念を正式に導入するもので、これを契機に克夫は、かねてからの独自の理論を現実のものへと変えていく。それは、次のような考え方であった。
「養老院は従来の救貧本位のままではこれからの高齢社会の要請に応えきれない。身体が不自由であったり、あるいは寝たきりで常時介護が必要、または一部介助を必要とする老人がどんどん増えてくるであろう。その人たちの特別施設がこれからの社会には不可欠である」
すでに昭和30年代の半ば頃から、克夫は中央や大阪の社会福祉事業界でもこの独自理論を公表し強調していたが、老人福祉法の制定は、まさにその追い風となるものであった。
畳からベッドへと様変わりした入居室
1964年から、国の老朽施設整備5ヶ年計画が始まったことで、阿倍野の分院から出発した懐かしい思い出が残る本館、1949年に完成した北館、1952年に建てた南館、そして進駐軍の兵舎跡を利用した集会堂。それらをすべて順に取り壊し、新築していった。木造時代の大阪養老院との決別であり、鉄筋建ての近代的な大阪老人ホーム時代の幕開けであった。

中庭が見えるモダンな浴槽

陽の光が差し込む洋風食堂
本館と診療所を新築、補助金により施設充実
新しい建物群の大阪老人ホーム時代の幕開けを告げる最初の施設は、1965(昭和40)年に完成した大阪老人ホームの本館である。鉄筋2階建て、広い廊下を清潔な姿の職員が行き交い、やわらかなバックミュージックも流れる施設は、「まるで、ホテルみたい」と評判を呼んだ。
本館に続く新施設となったのが、1967年に完成した岩田記念診療所(循環器センター)である。北館に併設していた診療所を、新築を機に施設の一層の充実を図り、循環器科、一般内科、消化器科、レントゲン科、理学療法科に加え、各種検査も可能になった。
また、国の制度化に先がけて在宅老人の機能訓練を実施し、さらに1968年頃からは肢体不自由児の療育を、1973年からは知的障害児の療育センターも併設した。
地域に根ざした老人ホームを、地域の人たちに具体的に役立つホームを目指す。そして、地域に愛され、親しまれ、理解され、支援される、持ちつ持たれつの間柄になる。そうした地域との接着剤としての医療施設のあり方は克夫の目指す姿そのものであった。
LEARNING FROM HISTORY, PONDERING TODAY, ENVISIONING TOMORROW.














