CHAPTER 2
2

【1925 - 1944】
大正14 - 昭和19

苦節の動乱期

第1節 : 苦難の門出

新館・慶福館が落成、「診療部」も開設

大阪養老院は1924(大正13)年、1908(明治41)年に新築した院舎の増改築に着手する。
翌1925年10月21日には盛大な落成式が開催され、新しい院舎は「慶福館」と命名された。先に建立された聖徳礼拝堂(聖徳会堂)と並んで、大阪養老院は名実ともに隆盛期を迎えていた。

恩賜財団慶福会からの助成を得て老朽化した院舎を増改築し、慶福館と命名。最も隆盛な時期を迎える

慶福館の完成や増改築とともに、民次郎は二つの設備を新設する。一つ目は、大阪養老院をこの世の最後の安住の地としてあの世に旅立った老人たちのために、大慰霊碑と納骨堂を建立したことである。二つ目は、診療部の開設である。嘱託医や看護師を雇用し、薬学校に通わせていた民次郎の娘・花も診療部を手伝った。
「養老院はただ、あの世への旅立ちを待つだけの場所ではない。その日が来るまで、明るく健やかに生き生きとした日々を過ごさせてあげたい。そのための健康維持、病気の予防と治療のために、養老施設には診療所か病院を併設するべきである」
民次郎のかねてからの持論であり、その想いを体現するものであった。100年後のいまも通用する民次郎の卓見は後に、二代目院長の岩田克夫、三代目理事長の岩田敏郎へと受け継がれていくことになる。

第1回全国養老事業大会開催

慶福館で行われた第一回全国養老事業大会への参加者

落成して間もない慶福館で、日本の社会福社事業において特筆すべき、一つの大きな催しが執り行われた。1925(大正14)年10月24日から26日の3日間にわたって開催された「第1回全国養老事業大会」である。
東は群馬、西は鹿児島まで、各地から 23団体・42名が参集した。大阪養老院とともに参加した団体は、次の通りである。大分養老院、鹿児島養老院、小西寿楽園、神戸市立救護院、大阪弘済会、広島養老院、神戸養老院、阿波養老院、岐阜養老院、東京養老院、堺養老院、前橋養老院、佐世保養老院、名古屋養老院、横浜市救護所、和歌山養老院、佐賀養老院、京都救済院、堺市大阪刑務所、東京市財団法人浴風会、松江愛隣社老人ホーム、敦賀仏教慈善会大会では、今日の老人福祉の問題を先取りするかのように、様々な議題について議論が交わされた。体験発表なども行われ、互いに懇談を重ねたほか、養老事業家の全国組織をつくることも申し合わされた。

施設全焼の被害

慶福館と聖徳礼拝堂(聖徳会堂)が完成し順調に発展を遂げていた大阪養老院に突然の災難が降り注いだのは1927(昭和2)年2月12日の未明のことであった。
聖徳会堂の床下から出火し、衰えない火の勢いによって聖徳会堂は炎に包まれ、養老院にも燃え移った。やがて、聖徳会堂と慶福館をすべて焼失した未明の大火により、大阪養老院は一切が灰燼に帰した。

全焼した大阪養老院

燃え盛る炎のなか、民次郎は陣頭指揮に立ち、120名の老人を助けるために必死の救出作業が行われた。「道具よりも、老人を運び出せ!」と叫ぶ民次郎の声が響くなか、老人同士、あるいは職員や近所の人々が火の粉を浴びながら次々と老人を救い出した。120名のうち112名が無事に救出され、8名が命を落としたが、最小限の犠牲に留めるものであった。

火災の原因は、収容する老人の放火であった。飲酒して毎夜遅く帰り、寝静まる他の老人たちに迷惑をかける姿に、門番が懲らしめのため閉め出したことに腹を立て、火を放ったことがわかった。

世間からは「大阪養老院の復興は無理だろう」という声が聞かれ、大阪府からも「この際、解散したらどうか」と忠告を受ける有様だった。順調だった大阪養老院が一夜にして焦土と化した姿に、民次郎夫妻は呆然と立ち尽くしていた。だが、民次郎は放火した老人を責めることは一切なく、むしろ入院の手配から死後の葬式まで、手厚かった。老人たちが放火した老人を憎む言葉を発した時も、こう言ってかばい立てた。「悔い改めたのだからもう罪人ではない。放火を自白してくれたから、むしる私の立場が立った」
この時、民次郎ときぬの年齢は57歳となっていた。経済的な苦難やいわれのない中傷や批判を一つひとつ乗り越えて、ようやく順調な経営となった矢先の災難であった。

第2節 : 不屈の精神と復興

天皇陛下のお言葉

大阪養老院の焼失によって死者を出したことに対する世間の風当たりは、厳しいものとなった。だが一方で、これまでに民次郎が培ってきた実績と信用、そして何よりもその人柄を高く評価する関係者が多く、励ましの声も寄せられていた。そして民次郎は、再起を誓った。
「きっと、5年間で復興させてみせる」固い決意の後、その行動は早かった。バラック小屋を建て、救出した老人たちを引き取り、養老院の再建へと取り組み始める。

差遣された牧野侍従(1929年6月4日、先頭が岩田民次郎、その左が牧野侍従)

復興を目指す不屈の姿に、有名、無名を問わず、支援者からの寄付金も相次ぐようになった。また、1927年末には宮内省からも、御下賜金3,000円が下賜されている。その後、1929年6月4日には、大阪市を行幸中の天皇の励ましのお言葉を携えて、牧野侍従が大阪養老院へ差遣・視察に訪れ、民次郎に伝達された。

第二慶福館・「長久館」完成、聖徳礼拝堂(聖徳会堂)再建

民次郎の不屈の姿勢と、それを後押しする多くの寄付によって1927(昭和2)年、2階建て、総建坪283坪の「第二慶福館」が完成する。
また、1933年4月11日には141坪、室数82室の聖徳礼拝堂(聖徳会堂)も再建が成った。
聖徳礼拝堂の百数十畳の広間は、収容する老人たちだけでなく聖徳会員の修養道場にも使われ、朝夕は礼拝、念仏読経の声が流れた。また、地元の人にも開放され、演芸会や地蔵盆の盆踊り、ラジオ体操場など、レクリエーションの場としても親しまれ、社会的にも貢献した。

第二慶福館

レクリエーションの様子

さらに、1935年の年末に新しい収容棟「長久館」を増築する。当時、大阪府に提出された事業報告書には、第二慶福館と聖徳会堂、長久館の3棟で140名余の老人を収容していた、との記録が残っている。

第3節 : 戦争の暗い影

「防空避難所」としての分院完成

日増しに高まりを見せる軍拡の足音は、ついに開戦の時を迎える。日中戦争に続いて、1941(昭和16)年12月8日には、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発した。この年の春、民次郎は「防空避難所」として大阪府中河内郡松原町阿保(現・松原市阿保)に約600坪の土地を購入し、分院計画を進めていた。120周年を迎える聖徳会が、現所在地の松原の地で踏み出した第一歩であった。第一期工事として6月に総建邸170坪の工事に着手し、翌1942年に完成する。建設資金の5,700余円はすべて借金で賄っていた。
「長寿園」と名付けられた松原分院は、周囲に田んぼや畑が広がり、園内には数十本の松が繁り、白い野ばらが咲き乱れる、絶好の環境にあった。建物完成後、老人たちは少しずつ引っ越しを開始し、食料や衣料が配給制になり度重なる空襲に追い詰められた老人たちも、次々と疎開してきた。

松原分院

深刻な食糧不足と栄養不良

食糧難の中野菜を作る老人たち

疎開する老人も含めて、戦時下の松原分院は日増しに人数が増え続け、超満員の状態になっていく。そのために頭を悩ませたのが、収容人員の数だけある胃袋を満たす、食糧難の問題であった。
阿倍野本院には、梅干しにらっきょう、茄子の漬物など、民次郎夫妻の手づくりによる大樽がいくつも用意されていたが、主食の確保が大変な難題だった。空き地でさつまいもなどを栽培したが間に合わず、配給される大豆や鰊は老人食には向かなかった。下痢の患者や慢性化した栄養不足による原因不明の病気が発生し、医薬品も乏しいために死者は次第に増えていった。

民次郎の功績捼 − 藍綬褒章受章

民次郎の藍綬褒章

戦時下の苦境にも、70代半ばに達していた民次郎の土気が衰えることはなかった。そして1944(昭和19)年、長年の功績が認められて藍綬褒章を受章する。宮内省から、御紋章入り銀花瓶が下賜された。
1902(明治35)年に大阪養老院を設立当初、東立寺を借りた地に収容したのはわずかに3名であった。その後、1906年の東北地方の大飢饉で117名を収容し、入居者総数は200名台を突破し、院舎が手狭になり阿倍野に新たな養老院を建設。1913(大正2)年には入居者総数が1,000名を超え、さらに増改築を経て1927年の放火による焼失後も見事に復興を遂げ、収容棟を増設して収容人員を増やし続けてきた。藍綬褒章を受章した1944年までに、設立からの延べ在籍者数は3,804名を数えていた。

1
【1901 - 1924】明治34 - 大正13 悲願達成と発展への
基礎づくり
2
【1925 - 1944】大正14 - 昭和19 苦節の動乱期
3
【1945 - 1978】昭和20 - 昭和53 飛躍への土台づくり
4
【1979 - 2001】昭和54 - 平成13 高齢者福祉の
新時代到来
5
【2002 - 2006】平成14 - 平成18 100周年からさらなる
一歩を
6
【2007 - 2011】平成19 - 平成23 新たな伝統を創り出す
挑戦
7
【2012 - 2016】平成24 - 平成28 「21世紀型の社会福祉法人」として
8
【2017 - 2021】平成29 - 令和3 多様化・複雑化する福祉サービスにシナジーを発揮
未来
【2022 - ∞】令和4 - ∞ 120周年を節目に、
次なるステージへ
1

【1901 - 1924】
明治34 - 大正13

悲願達成と発展への基礎づくり

2

【1925 - 1944】
大正14 - 昭和19

苦節の動乱期

3

【1945 - 1978】
昭和20 - 昭和53

飛躍への土台づくり

4

【1979 - 2001】
昭和54 - 平成13

高齢者福祉の新時代到来

5

【2002 - 2006】
平成14 - 平成18

100周年からさらなる一歩を

6

【2007 - 2011】
平成19 - 平成23

新たな伝統を創り出す挑戦

7

【2012 - 2016】
平成24 - 平成28

「21世紀型の社会福祉法人」として

8

【2017 - 2021】
平成29 - 令和3

多様化・複雑化する福祉サービスに
シナジーを発揮

未来

【2022 - ∞】
令和4 - ∞

120周年を節目に、次なるステージへ

LEARNING FROM HISTORY, PONDERING TODAY, ENVISIONING TOMORROW.